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『人を動かす』について (商売のヒント vol.47)

7月になった途端、梅雨が明けて猛暑になりました。体がまだ慣れていないせいもあって、連日熱中症の患者数がニュースとなっていました。その後は暑さも幾分落ち着いたようですが、夏本来の暑さはこれからがピークとなりますので、皆様ご自愛くださいますようお願いいたします。

夏といえば、私が北海道から上京した昭和53年(1978年)はカラ梅雨で、6月の終わり頃からマンションの工事現場で窓ガラスに付いたペンキなどをクリーニングするアルバイトをやっていたのですが、クーラーなどは当然なく今まで経験したことのない毎日の暑さに言葉も出ないような日々でした。東京の暑さで学んだのは、北海道ではハンカチは手を拭くためのものなのですが、東京では汗を拭く用途でも使うものということでした。ただ人間の体は慣れるようにできているみたいで、友人たちは私のことを暑さに強いとよく言われます。自分ではそのようには思っていないのですが、他人が見ている自分と、自分が思っている自分とどちらが本当の自分なのか難しい問題です。

毎度のことながら、皆様の『商売』の分野については素人の私ですので未熟な私の哲学や思い込みもかなり含まれていくことになるとは思いますが、その時は御笑覧いただければ結構です。それでは第47回目を始めましょう。


『人を動かす』について

ディール・カーネギーの「人を動かす」という本があります。息の長いベストセラーなので皆様も読んでいらっしゃる方は多いと思います。

 私も20年くらい前に読んでいるはずなのですが、もう一度読んでみようと思い事務所や家を探しましたが見つからなかったため、本屋で改めて購入しました。読んでみると、若い頃の私と現在の私の感受性が異なっているのか、経験がそうさせているのかわかりませんが感じ方が随分と違いました。若い頃は「そんなものかなぁ」という部分が結構あったと思いますが、いまは「なるほど。そうだったのか」という妙に納得する部分が多々ありました。ですので、一度にはすべてご紹介できませんが、何回かに分けてご紹介していきたいと思います。

 あらためて申し添えますが、私自身は基本的に「人を動かす」ことができているとは、全然思っていません。逆に「人を動かす」ことが超下手人間と思っているのでこの本を読んでいる始末です。少しでも参考にして「少し人を動かす」程度のことができればと思っています。

 

今回は第1章の“人を動かす3原則”から‥霓佑砲盡淙の理を認めるの部分をご紹介していきたいと思います。

第1章の“人を動かす3原則”には

‥霓佑砲盡淙の理を認める

⊇斗彜兇鮖たせる

人の立場に身を置く

ということが書かれています。

第1章の第1に「盗人にも五分の理を認める」がどう「人を動かす」につながるか不思議な気もしますが、そこでは自分自身のことを考えると当たり前のことが他人相手ではそう見えないというとても深い人間心理が語られています。

 

具体的には、殺人犯で死刑になったクローレーという人物のことが書かれています。警察官を射殺してニューヨークで派手な銃撃戦の末、電気椅子で死刑になる直前、彼が語った言葉は「こうなるのも自業自得だ。大勢の人を殺したのだから」というものではなく「自分の身を守っただけのことで、こんな目にあわされるんだ」と言ったそうです。

13Pでは、

こういう考え方をする犯罪者は、決してめずらしくない。

「おれは働き盛りの大半を、世のため人のためにつくしてきた。ところが、どうだ−おれの得たものは、冷たい世間の非難と、お尋ねものの烙印だけだ」となげいたのは、かつて全米をふるえあがらせた暗黒街の王者アル・カポネである。カポネほどの極悪人でも自分では、悪人だと思っていなかった。それどころか、自分は慈善家だとおおまじめで考えていた。世間は、彼の善行を誤解しているのだというのである。

中略

 この問題について、わたしは、シンシン刑務所長から興味のある話を聞かされた。およそ受刑者で自分自身のことを悪人だと考えているものは、ほとんどいないそうだ。自分は一般の善良な市民と少しも変わらないと思っており、あくまでも自分の行為を正しいと信じている。なぜ金庫破りをしなければならなかったか、あるいは、ピストルの引金を引かねばならなかったか、そのわけを実にうまく説明する。犯罪者は、たいてい、自分の悪事にもっともらしい理屈をつけて正当化し、刑務所に入れられているのは不当だと思い込んでいるものなのである。

 右にあげた極悪人たちでさえも、自分が正しいと思い込んでいるとすれば、彼らほどの悪人でない一般の人間は、自分のことを、いったいどう思っているのだろうか。

中略

 わたしは、残念ながら、四十歳近くになってやっと、人間はたとえ自分がどんなにまちがっていても決して自分が悪いとは思いたがらないものだ、ということがわかりかけてきた。

 他人のあら探しは、なんの役にも立たない。相手は、すぐさま防御態勢をしいて、なんとか自分を正当化しようとするだろう。それに、自尊心を傷つけられた相手は、結局、反抗心をおこすことになり、まことに危険である。

 世界的に有名な心理学者B・F・スキナーは、動物の訓練では、善いことをしたときに褒美をやった場合と、まちがったときに罰をあたえた場合とをくらべると、前の場合のほうがはるかによく物ごとを覚え、訓練の効果があがることを実証した。また、その後の研究から、同じことが人間にも当てはまることが明らかにされている。批判するだけでは永続的な効果は期待できず、むしろ相手の怒りを買うのがおちである。

 いまひとり、偉大な心理学者ハンス・セリエはこういう。

「われわれは他人からの賞賛を強く望んでいる。そして、それと同じ強さで他人からの非難を恐れる」

 批判が呼びおこす怒りは、従業員や家族・友人の意欲をそぐだけで、批判の対象とした状態は少しも改善されない。

 

この部分を読んだときに、お恥ずかしい話、私自身まさに青天の霹靂、目からウロコ状態でした。自分自身に置き換えてみると、自分のしていることに対して「間違っている」と思っていることは多少あるにしても「まぁいいか」とか「しょうがない」と思いながら正当化している自分がそこにいます。でもそのように思うことは「自分のしていることは基本的に正しい」と思っている場合に比べるとはるかに少ないといえます。

つまり、自分自身でさえ行動が「基本的に正しい」と思っているとするならば、他人も私同様「基本的に正しい」と思って行動していることになります。

経営者の方とお話をしているとよく「社員に対して言いたい事の半分も言えていない」ですとか「1割ぐらいしか言えていないよ」というお話を聞きますし私自身も同様に感じています。

ただ、この本を読む前は「なんでこんなことがわからないのだろう」とか「どうして気づかないのだろう」という感覚を持ちながら、言いたい事の半分も言えていない状態だったのですが、相手の立場に立ってよく考えてみると相手も「基本的に正しい」と思って行動しているわけですから、正面からダメだししても「どうして正しいと思うことをやっているのに、そんなことを言われなければならないのだろう」となってしまうということになります。毎日、自分自身だけが正しいと思って行動していると思い込んでいた自分が情けなくもあり、恥ずかしくもあります。

さて、おおよそほとんどの人間が「自分は正しい」と思っていながら毎日行動していることに気が付くまでは気が付いたとして、それでは具体的にどうしたらよいかということになります。

15Pにこのような話が載っています。

 

オクラホマ州エニッド市のジョージ・ジョンストンは、ある工場の安全管理責任者で、現場の作業員にヘルメット着用の規則を徹底させることにした。ヘルメットをかぶっていない作業員を見つけしだい、規則違反を厳しくとがめる。すると、相手は不服げにヘルメットをかぶるが、目を離すと、すぐ脱いでしまう。

そこでジョンストンは、別の方法を考えた。

「ヘルメットというやつは、あんまりかぶりごこちの良いもんじゃないよ、ねぇ。おまけにサイズが合っていなかったりすると、たまらんよ。きみのは、サイズ、合っているかね」

 まず、こう切り出して、そのあと、多少かぶりごこちが悪くても、それで大きな危険が防げるのだから、ヘルメットは必ずかぶろうと話すのである。これで相手は怒ったり恨んだりすることもなく、規則はよく守られるようになった。

 その後、リンカーンの話とかいろいろのお話が書いてあるのですが結論はP32にあります。

 人を非難するかわりに、相手を理解するように努めようではないか。どういうわけで、相手がそんなことをしでかすに至ったか、よく考えてみようではないか。そのほうがよほど得策でもあり、また、おもしろくもある。そうすれば、同情、寛容、好意も、おのずと生まれてくる。

 すべてを知れば、すべてを許すことになる。

 

 さて、具体的な応用方法は試行錯誤してみなければわかりませんが、相手を理解する、つまりどういう考え方に基づいて行動したのかを考えてみるということは、決して無駄な努力ではないような気がいたします。

 

end
 
author:吉村 以知郎, category:2013年, 11:20
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